今日、ついに王立サン・フェルナンド・アカデミーに行った
日本の芸大のような大学で、前から行ってみたかった美術館だっただけに期待を大きく持って入ってみた
階段を上り2階へ
どこでチケットを買うのか?荷物はどうするのか?
まったくわからなかったが、係員の人にゴチャゴチャ言われながら何とか入場
絵はプラドにあるような絵ばかりだが、人が少ないのでスゲーいい!
やっぱ絵画鑑賞は静かでなくちゃ
俺はここぞとばかりに1枚1枚コンポジションを分析しながら観ていった
もうコンポジションの分析も慣れたもんだ
すぐに線や三日月が見つけられる
絵の数は少ないけど、質が高いのばかりだったな
ここもなかなかいい美術館だ
それにこの美術館も土日がタダになった
それはスゴイいいことだ
でも、入れないエリアもあったので、1回くらいはお金を払って観るかな
いやー、今日は勉強になった
また行こうっと
明日はプラドで黄金分割の勉強だ
バッチリ吸収しよう
俺には勉強することがたくさんある
それを全部吸収して、どうアレンジしていくか
これからの俺の課題だ
ガンバロ
それから今日、バイトの方休みだったな
どうしたんだろう、突然?
まぁ、月曜になればわかるだろうて
さて、手紙でも書くとすっかな
※コンポジションとは?
美術の領域では、各部分の形態を、そのそれぞれが独自に持っている色やヴォリューム、また動勢などをたくみに調整しながら絡めあわせ、ひとつの全体としてまとまった作品をつくり上げること。
「構成」、また絵画の場合は「構図」とも訳される。
ヨーロッパ美術では、近世から近代へと向かうなかで、このコンポジションは強く意識されるようになった
(レオナルド、プッサン、ダヴィッド、セザンヌ……そしてなにより彼らの作品をめぐるディスクールのなかで)。
また20世紀初頭の絵画、特に抽象絵画の多くが、この「コンポジション」の語を作品のタイトルに取り入れているのは、美術作品の自律的価値、あるいは形式的/形態的側面が重視されるようになったことの表われだろう。
そして第2次大戦後のアメリカの美術、特に抽象表現主義とミニマル・アートは、この「コンポジション」を強く批判する。
まず中心となる部分があり、その中心にほかの部分が従属するような、そしてさまざまなバランスを考慮しつつ部分と部分を関係づけてゆくようなやり方は、作品の形態を決定するものとして因習的、恣意的であり、もはや有効ではないとされる。
全体性(wholeness)やシンメトリーは、彼らによってコンポジションを乗り超えるものとして構想されたものである。